もうすぐで東京オリンピック・パラリンピックですね!
ところでみなさんはパラリンピックの歴史はご存知でしょうか?
歴史を知っているのと知らないのでは楽しみ方が変わってきますよね。
飲み会の場での豆知識としても知っておいて損はないはず!
それでは紹介していきます♪
パラリンピックの歴史
みなさんもご存知の通り、パラリンピックは障がい者スポーツですが、もともとは戦争で負傷し障がいを負った兵士たちの、リハビリテーションの一環として始まりました。
メニューに沿って1人もくもくと訓練に励むより、記録を目指したり仲間と励まし合ったりの方が、効果も上がるし楽しいじゃないか!となったそうです。
パラリンピックの提唱者、ルートヴィッヒ・グットマン博士
時は第二次世界大戦後。
イギリスのストーク・マンデビル病院には、戦争で脊髄を損傷した兵士のためのリハビリ専科が設けられました。
そんな中、彼らにスポーツを勧めたのがそこに勤務していた、ドイツからの亡命ユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマン博士です。
歯を食いしばっての機能訓練より、バスケットボールやアーチェリーを楽しみながら、体の機能を回復させる方がずっと良い。
博士のこの考えは、これから先の生活を考え落ち込みがちだった患者たちの精神面に、著しく良い影響をもたらしました。失った物ばかりを考えていた患者たちは、自分に残された可能性に気付き始め、生きる意欲につながって行ったそうです。
第1回国際ストーク・マンデビル競技大会
1948年7月28日、世界は第14回ロンドンオリンピック大会の開会式に沸いていました。
時を同じくして、イングランド南東部のバッキンガムシャー州にある、ストーク・マンデビル病院でも、入院患者による競技会が開かれます。
これは車椅子使用者によるアーチェリー競技会で、「手術よりスポーツを」を合言葉に、男子14人・女子2人の入院患者が参加しました。大いに盛り上がったこの競技会は、これ以降毎年の病院恒例行事となり、1952年にはオランダの選手も参加するようになります。
そしてこれが「第1回国際ストーク・マンデビル競技大会」となりました。
第1回パラリンピック大会
1960年には、さらにベルギー・イタリア・フランスからの参加もあり、都合5ヶ国による「国際ストーク・マンデビル大会委員会」が結成されます。
初代会長にはグットマン博士が就任し、この年にイタリアで開かれた、第17回ローマオリンピックの開催に合わせ、同じくローマで「国際ストーク・マンデビル大会」が開催されました。これには23ヶ国の選手が出場し、後にこの大会が「第1回パラリンピック大会」に認定されます。この時のオリンピック参加国・地域数は83でした。
パラリンピック発展のきっかけとなった第18回東京オリンピック
1964年の第18回東京オリンピック大会の後に、同じく東京で「国際身体障がい者スポーツ大会(後の第2回パラリンピック大会)」が開かれました。
この東京での大会は、2部に分けて行われました。第1部が国際ストーク・マンデビル競技大会とされ、第2部は車椅子の選手に加えて、視覚障がいや聴覚障がいなど、全ての身体障がい者を対象にした、日本人選手だけの国内大会として開催されました。
このように、参加できる障がいの種類も広がった東京大会をきっかけに、これまで以上に多くの人が、障がい者スポーツを楽しむようになります。頑張れば国際大会への道が開かれている、これはスポーツをする全て者にとって、大きな励みと喜びになりました。
「パラリンピック」が正式名称となる
1985年に、オリンピックと同じ年に行われる「国際身体障がい者スポーツ大会」を、パラリンピックと呼ぶことが正式に決定されます。
その3年後に韓国で開催されたソウルパラリンピックでは、61の国と地域から、3,000人以上の選手が参加する大きな大会へと育って行きました。
これは第8回パラリンピック大会と位置付けられ、「パラリンピック」が正式名称となった初めての大会です。
その後の発展
1989年には、パラリンピックの主催に加えて、障がい者スポーツ大会を国際的に組織し、発展のため活動する団体として、国際パラリンピック委員会が設立されます。オリンピックと同様に加盟各国に国内パラリンピック委員会が設置され、障がい者スポーツの発展に努めています。日本では、1999年に日本パラリンピック委員会が発足し、日本障がい者スポーツ協会の中の組織として活動しています。2000年オーストラリアのシドニー大会で、国際オリンピック委員会と国際パラリンピック委員会の会長が協議を行い、オリンピックの開催国はオリンピック終了後に続けてパラリンピックを開催することを決定しました。
オリンピックの語源は、古代ギリシアのオリンピアで、4年に一度開かれていたスポーツ大会にちなむものですが、ではパラリンピックはどこから来た言葉でしょうか。
もともとは下半身不随(paraplegia)とオリンピック(Olympic)を組み合わせた造語でした。しかし下半身不随者以外の障がい者も参加するようになったことで、平行(parallel)とオリンピック(Olympic)を組み合わせ、オリンピックと平行して開かれる大会、つまりもう一つのオリンピック大会との意味で、名付けられたのです。[/voice]
東京パラリンピック注目の日本人選手
メダルラッシュの予感!?【競泳】成田真由美選手
ロンドンパラリンピック競泳種目で、日本代表選手は8個のメダルを獲得しました。
特に注目されるのは>成田真由美選手獲得メダルは何と、金メダル15個を含む計20個にのぼります。
中でも2000年のアテネ大会では、1人で7個もの金メダルを獲得しています。
2005年には、パラリンピックスポーツ大賞を受賞しますが、北京大会を最後に第一線からは身を引いていました。しかし自分が泳ぎ続ける姿を見せることが、新しい選手たちが誕生するきっかけになるのではと考え、2015年に競技復帰を果たします。2016年リオデジャネイロ大会では、46歳で2大会ぶり通算5回目の出場を果たし、健在ぶりを見せました。
東京パラリンピックでも期待ができる選手ですね!
世界王者は譲らない、【車椅子テニス】国枝慎吾選手
テニスの世界4大会(全豪オープン・全仏オープン・全米オープン・全英オープン(ウインブルドン)すべてに優勝することをグランドスラムと言い、1年間で達成するのを年間グランドスラムと言います。
健常者テニスの長い歴史の中でも、達成できたのはドン・バッジとロッド・レーバーのわずか2人ですが、実は椅子テニスで年間グランドスラムを、すでに5回も達成している選手が国枝慎吾選手車です。
一時は古傷である右肘の痛みがぶり返して、現役引退も考えましたが、驚異的な車椅子のコントロール技術は健在、正確で力強いストロークも衰えを見せません。
彼の活躍は車椅子テニスに留まらず、日本のパラスポーツ界全体をリードして来ました。
国枝選手がどんなプレーを見せてくれるのか、楽しみですね!
パラリンピックは、1960年に行われた国際ストーク・マンデビル大会から約60年の間に、多きく発展しました。
「失われたものを数えるな、残された機能を最大限に生かせ」このグットマン博士の言葉は、今も受け継がれているのです。
注目選手も多い東京パラリンピック。
是非みんなで応援して東京パラリンピックを盛り上げていきましょう!